闘う魂貫く心

あ、ただ単にメタルが好きなだけです

まるで人間性のテストを受けたかのような

 さてさて、小田原の旅の道中ではちょっとしたハプニングもありましてね。簡単に言えば、電車の駅で困っている人がいらっしゃったんですよ。小さな駅でどうにも駅員さんは居ないらしい。自分達は旅の途中なもんで土地勘は0。ご老人の方で話を聞くにもどうも要領を得ない。はて困った。

 こちらは何人か居たんでね。心を砕いて困っている方とコミニュケーションを取る者、ITを活用して必要な情報を集めようとする者、駅員さんは居ないか?状況はどうか?と駆け回る人。

 結局、困っている方に出来るだけの協力をしてことなきを得たんですが、自分の行動は適切だったか?どんな対応が最良だったのか?と考えてしまいます。考えてしまう、とは言っても思い悩むわけではなく、思いを巡らせてしまうだけですが。

 

 例えば、世知辛い昨今、悪意のある行動であった可能性もあるし、悪意はなくともトラブルに巻き込まれて旅の損失になった可能性だってある。単純に「困っているのか、助けてあげよう」という気持ちだってあれば、「面倒くさいな、こっちは一大イベント中なのに」という気持ちだってある。そこへ、そこに居合わせた他人の目もあれば、旅の仲間がどう思っているのか、なんてことだって考える。

 「ごめんなさい、この辺りに詳しくないので他の人に聞いてみてください」と言うのだって有りだ。有りよりの有りだよね。一見無責任に突き放すようだけど、自分自身詳しくないんだもん。ささっと近くの人に託した方が、より素早く確実に解決するかも知れない。その方がみんな幸せかもしれない。

 

 今回は結果オーライ、特に不幸になる人は居なかった。でも例えば、土地勘がないくせに良い人ぶろうとして、困っている人を更に困らせてしまったら?困っている人を助けようとするあまりに自分と連れの旅が台無しになってしまったら?なんてことまで考えると、本当の正解っていうのは有って無いようなものにも思える。

 

 色々な対応をしながら、自分の中で必死に考えていた。あれこれと想定して、様々な選択肢を浮かべていた。大そうな出来事ではなかったんだけれど、自分の中で「しっかりと考えながら対応出来た」のは良い点として挙げても良いだろう。

 これが一転、重要な仕事の一場面でも、災害や事件に遭遇した一場面であっても、大事なのは「しっかりと考えて最適解を探る」ことだと思っている。逆にそれが出来れば及第点、だとも。正解だけを追い求めたって良いことは無い。上手く行かないことだってたくさんある。

 「なぜ〇〇出来なかったのでしょうか」としたり顔で検証するように、起こってしまった悲劇を振り返る、よくメディアで見かけるそんな流れをどうも好きになれない。二度と悲劇を起こさないように、という再発防止はとても重要だとは思う。けれどそれは感情を切り離し、客観的に理屈で考えなければいけないはずだ。再発防止・原因究明・検証と「悲しみ」は切り離されるべきだ。

 「あの悲しみを忘れてはいけない」本当にそうだろうか?悲劇を繰り返さない「仕組み≒社会」を作り上げた上で、悲しみは「忘れる」ことで「救われる」ことは許されないのだろうか。無邪気な笑顔で遊ぶ子供たちをつかまえて、過去の苦しみ悲しみを植え付け、末代まで語り続けろと仕向けることが、本当の再発防止なんだろうか。それはむしろ呪いではないだろうか。

 

 あ、今日は3.11ですね。